モスクワで今年、101歳の男性が生涯を閉じた。原爆が投下された直後の広島、長崎へ、米国よりも先に調査に入ったソ連軍(当時)のスパイだった。同僚は放射線障害で死亡し、自らは生き延びた。報告書の所在は被爆70年が迫る今も分からないが、元スパイは晩年、親しい友人にその内容を明かしていた。
 スパイはミハイル・イワノフ氏。第2次世界大戦末期は東京のソ連大使館に在籍し、ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)の一員として活動していた。戦後も1970年代に武官(軍人外交官)として日本で勤務した。
 「彼が日本人を悪く言うのを聞いたことがない」。日ロ関係史を研究するアレクセイ・キリチェンコさん(78)は、自宅があるロシアのモスクワでこう振り返った。かつて旧ソ連国家保安委員会(KGB)第2総局(防諜(ぼうちょう)局日本担当)に勤め、「知られざる日露の二百年」(現代思潮新社)の著者でもある。
 スパイの諜報活動内容は漏らしてはならないとされるが、生前のイワノフ氏はキリチェンコさんに対し、国家の命令で調査した原爆投下直後の広島、長崎での体験を語っていた。キリチェンコさんはその証言の記録をまとめていた。
■広島「SF世界のような光景」
 米軍は45年8月6日と9日、広島、長崎に原爆を相次いで投下した。8日に参戦し、日本に宣戦布告したソ連は原爆を開発しておらず、威力の解明を急ぐ必要があった。
 「現地調査を命じる」。イワノフ氏と同僚のゲルマン・セルゲーエフ氏は上層部から指示され、終戦翌日の8月16日に広島へ、翌17日に長崎へ入った。米国が広島で予備調査を始める20日以上も前だった。
 2人は列車で広島駅にたどり着いた。想像した被害をはるかに超える「SF世界のような光景」に言葉を失った。「恐ろしい病気がはやっている」。日本の公安職員から「視察」を控えるよう説得された。
 爆心地を突き止め、爆発でできたくぼみの深さを確認する――。爆弾の威力を算定するデータとなる状況をつかむことが最大の任務だった。だが、爆心地で見たのは約1キロ四方の真っ平らな空間。巨大なローラーで突き固めたようだった。
 異様な色に溶けた石を拾っていた時、吐き気をもよおすような臭いがした。残留放射線の影響や怖さを知らないイワノフ氏らはそれらを包み、かばんに入れていった。
 長崎では、米国の偵察機が原爆投下前に空からまいたという警告の紙片を見つけた。生き残った人はがれきを使い、一時しのぎのあばら屋を建てていた。死体から出る臭い、うめき声、叫び声……。役所の建物の床で一夜を過ごしたが、一睡もできなかった。
■「最も早い報告書」の行方は?
 イワノフ氏とセルゲーエフ氏は、原爆投下直後の被爆地で残留放射線を浴びていた。日本で戦後にできた被爆者援護法に照らせば、「入市被爆者」にあたる。調査後、セルゲーエフ氏は体調を崩して死亡。だが、イワノフ氏は生き延びた。
 イワノフ氏らが作ったとされる「最も早い報告書」はどこにあるのか。
 原爆の投下から62年がたった2007年11月。95歳になったイワノフ氏はキリチェンコさんに「調査報告書や回収品、写真は全て最高指導部に上げた」と語ったという。
 だが、調査報告書の所在は今も分かっていない。イワノフ氏は今年2月に101歳で亡くなり、モスクワの墓地で眠っている。
■生死分けたのはウイスキー?
 イワノフ氏とセルゲーエフ氏の生死を何が分けたのか。ソ連当局は調べた。
 広島と長崎での視察後、イワノフ氏はモスクワの軍事病院に1年間入院させられて、徹底した検査を受けた。その結果、ある結論が導かれた。
 「命を救ったのはウイスキー」
 イワノフ氏は東京から広島へ向かう列車の中で、サントリーのウイスキーを1人で1本空けた。セルゲーエフ氏は酒を断っていた。
 その後、ソ連は原子力施設で働く職員に少量のアルコール摂取を義務づけ、原子力潜水艦では、摂取のための一杯を「イワノフのコップ」と呼ぶようになったという。
 放射線の防御にはアルコールが有効との「伝説」が広がり、チェルノブイリ原発事故(1986年)や東京電力福島第一原発事故(2011年)の際も、ロシアでは「ウオツカや赤ワインが効く」という話が流れた。
 独立行政法人放射線医学総合研究所」によると、アルコールと放射線をめぐっては、「ビール成分に防護効果を確認した」とする研究成果がある。一方で、科学的な定説にはなっていないという。
 「伝説」は、広島・長崎の原爆が原点だった。イワノフ氏の95歳の誕生日を祝った際、キリチェンコさんはサントリー・ウイスキーを贈った。その機知をくみ取ったイワノフ氏の満足げな表情を、キリチェンコさんは今も覚えているという。
■焦るソ連、現地調査重ねる
 米国の原爆投下で幕が開いた米ソの対立は、核武装を競い合う冷戦へとつながっていった。「米国がソ連の20都市を核攻撃する」という秘密計画までもたらされたソ連は躍起になり、1949年に原爆の開発にこぎつけた。
 イワノフ氏の報告書の所在は分かっていないが、ソ連が45年9月と46年9月に被爆地に送った別の調査団の報告書はロシア外務省の外交史料館(モスクワ)で保管されている。朝日新聞が閲覧を求めたところ、今年に入って認められた。
 「原爆/広島・長崎への原爆使用の結果に関する資料」と題された45年の報告書は、東京のソ連大使館がスターリンや核開発の最高責任者だったベリヤら5人の幹部にあてて作った。
 46年の報告書は連合国の視察団に加わったソ連情報将校が作成。長崎の被爆を示す写真が十数枚添付されていた。だが、広島の写真は添えられていなかった。(核と人類取材センター・副島英樹)
■イワノフ氏後の報告書 内容は?
 「核の時代」の幕開けとなった広島・長崎への原爆投下。戦後、核開発で米国と対抗することになるソ連は、米国に先を越された原爆を必死になって追い求める。その証しが、複数の現地報告書の存在だ。
 残念ながら、被爆地にいち早く入った元ソ連軍スパイのミハイル・イワノフ氏の報告書は、専門家もまだ確認できていない。ロシア大統領府の資料館にあるとの見方もあるが、公文書公開制度がロシアではまだ十分整っていないためだ。
 現在確認されているのは、ロシア外務省の外交史料館(モスクワ)に保存されている、1945年9月と46年9月の二つの報告書。今年1月、これらの実物を記者は閲覧した。その概要を紹介したい。
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 ■45年9月の報告書は東京のソ連大使館がまとめ、最高指導者スターリン、ベリヤ(副首相、核開発最高責任者)、マレンコフ(スターリン側近)、ミコヤン(副首相)、モロトフ(外相)の5人に宛てられた。「事案125 原爆」と題されたファイルにある計37ページの極秘資料で、90年4月に機密解除されている。
 【概要】
 原爆とそれがもたらした破壊は、日本の国民に強烈な印象を与えた。それが降伏の理由の一つだと、天皇の詔勅や日本政府の公式声明も触れている。日本の敗戦の直接原因とも言われており、その破壊力と長期的影響は全般に新聞によって誇張されている。人々のうわさは新聞情報をゆがめ、ナンセンスな流言飛語となっている。被爆地では女性は子どもが産めない体となり、男性は性的不能に陥った――などのうわさだ。
 これらの話はサンフランシスコのラジオ放送にたき付けられた。そのラジオは、被爆地では70年間にわたりどんな生き物も存在できないと伝えていた。
 日本の新聞は、こうした情報に反論しないだけでなく、むしろ広めてきた。恐らく、そこには二つの目的がある。一つは、無条件降伏と、こうした恐ろしい兵器と戦うことが不可能であると正当化すること。もう一つは、肉親や親類、知人の捜索のために広島・長崎へ人が殺到しないようにするためだった。
 こうしたうわさや情報に惑わされず、原爆の作用を独自に知るとの課題を掲げ、大使館職員のグループ(ロマノフとキケニン)が9月13日に広島と長崎へ向かった。
 9月14日の明け方に広島に到着。強い雨が写真撮影を妨げた。広島駅も街も、雨宿りする場所もないほど破壊されていた。街は焼け野原で、鉄筋コンクリートの骨組みだけが15~20ほど身をさらしていた。
 駅から約500メートルのところで、土小屋から年老いた女性がはい出てきて、焼け跡を掘り始めた。原爆がどこに落ちたかを尋ねると、女性は「強烈な雷光と強力な衝撃に襲われ、倒れて意識を失い、何も覚えていない」と答えた。
 さらに100メートルほど行くと、雨よけのひさしを見つけた。そこで出会った初老男性は、自宅の焼け跡に小屋を建てていた。男性によると、危なかったのは最初の5~10日間。最初の日は、負傷者の救援にやってきた人々が犠牲になった。今は植物が育ち始め、まもなく畑の収穫も期待すると男性は言った。
 確かに草が緑になり始め、焼けた樹木から新しい葉が現れさえしていた。
 ある場所は強烈に、ある場所は弱く、またはまったく放射線を浴びていない。ここからこう考えられる。爆弾のエネルギーは完全な規模で発散されず、層状になっていた。その結果、被害を免れた部分があった。ある人はやけどを負い、近くにいた人が何も被害を受けなかったという事実が、それを物語る。これは爆心地からかなり離れた場所の話だ。1キロ以内ではあらゆる生き物が抹殺された。
 広島赤十字病院では、2階建て建物に約80人の患者がいた。顔や手、足など主に体表面のやけどだ。多くが深く骨までガラス片が刺さっている。
 40代の男性負傷者は爆心から約500メートルの電機工場で被爆した。白血球数が2700まで落ちた。病院には自ら来たが、なぜ彼が助かったかを特定できなかった。やけどはないが、髪は抜けた。ビタミンBとC、それに野菜が与えられた。
 鉄道駅に「負傷者救助」の腕章をまいた耳鼻咽喉(いんこう)科の医師に出会った。福原と名乗る彼は、パラシュートで3発の原爆が落とされたと言った。14キロ離れたところから目撃し、2発の不発弾は軍がおさえて調べているという。
 福原医師によると、救護所には2日目に到着。水を飲んで以降、下痢が始まった。原爆の放射線は血液の状況の変動をもたらした。健康な人の場合、白血球は8000。原爆放射線の作用の結果、それが3000や2000、1000、もしくは300、200にさえなる。鼻やのど、目から出血し、女性は子宮出血も。体温は39、40、41度に上がる。3、4日して死んでしまう。
 被爆当日に爆心地区の水や洗浄水を飲んだ患者は、すぐに死んだ。被爆後10日間は危険だった。ウラン放射線が土から放射されたからだ。ウラン爆弾の防御服は、ゴムか絶縁体のもの、と医師は説明した。
 長崎への列車の中で、2人の学生と話をした。親類の女性が被爆数日後に広島に入ったが、8月25日に発病し、その2日後に死んだとのことだった。
 長崎には16日に到着した。車の運転手の話では、被爆初日は救援活動はなかった。三菱の兵器工場で働いていたフィリピン人捕虜らも犠牲になった。
 爆心付近の死臭は強烈だった。多くの死体は廃虚や焼け跡の中でそのまま放置されていた。
 東京への帰路、同行した米国海軍第5艦隊の医療隊長は、日本人は原爆の効果を過大視しすぎだと述べた。放射線の危険は1日だけとも言っていた。広島の原爆は3発とのうわさも、1発のみだと否定した。
 (これに続き、朝日新聞や毎日新聞の原爆関係の記事もロシア語に翻訳して伝えている)
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 ■46年9月の報告書は、連合国総司令部(GHQ)の諮問機関「対日理事会」の調査団が同月、広島・長崎を含む日本各地を視察した記録だ。ソ連から4人が参加し、当時、対日理事会ソ連代表の上級補佐官を務めていたグリンキン氏が報告書をまとめた。
 【概要】
 9月10日に広島に到着した。福屋デパートの屋上から広島市内を見渡した。原爆とその後の火災による破壊規模がうかがえる。
 フランス人のカトリック聖職者が被爆当時の証言を語った。医療にも従事していた彼のもとには多くの日本人が助けを求めて押し寄せた。衣服で覆われていない足や腕の部分にやけどを負い、和服女性は首にやけどを負った。
 大半の被害者は、投下当日、何の警告も受けなかった。学校や工場はいつも通り動いていた。民家の台所ではガスや電気コンロが使われていた。そのため、多くの人が生きながら焼かれた。欧州タイプの鉄筋コンクリートの建物にいた人々は被害を免れた。
 この聖職者は、広島の犠牲者が増えたのは、放射線を浴びた人々に適切な専門的処置がなされなかったことと関係していると強調した。広島には260人の医師がいたが、投下初日で200人が死亡した。傷を洗って清潔にするしか方法はなかった。あとは、免疫力をつけるためによく食べるよう勧めたという。
 最も強い放射線はどこで見られたかとの質問には、聖職者は、爆心地に近いほどやけどの負傷者が増えたと答えた。爆発後、人々に放射線の影響は見られたかとの質問には、彼は「分からない」と答えた。
 調査団のオーストラリア人将校に「爆心地の正確な位置はどこか」と尋ねると、米国人将校らは「ロシア人が何か関心を示している」と話し始めた。大声を出して英語で「すべてこれは何も変なことではない。これについては記録されている」と答えてやった。
 長崎には9月11日に入った。しかし、三菱造船などがあった南部の視察は、見るものは何もないとの理由で米国人が拒んだ。
 爆心地を示す場所を訪れ、投下爆弾の尾翼をまねた木製の標識を確認した。
 医科大学の建物跡では、中年の医師の話を聞いた。「広島の経験で、米国が原爆を使うことは知っていた。何らかの光線でひどいやけどを負い、白い衣服が防御になりうることを知っていた。多くの人が警戒して防護策をとっていた。万一の場合に顔や頭を守るため、私は白衣の他に肩に白いフードをつけていた」
 放射線の影響は個人的に何かあったかの質問には、この医師は「頭痛が数週間続いた」と答えた。
 三菱の魚雷工場は押しつぶされ、ライ麦畑のようになっていた。三菱の地下の兵器工場は、六つのトンネルが西から東へ扇状に広がり、総延長は200メートル。大急ぎで作ったため、炭坑に似ている。原爆での被害は免れていた。
 米英の新聞は2年間は草も生えないと書いていたが、広島も長崎も、被爆地は深い草に覆われていた。
 長崎に落とされた原爆は、その破壊力では広島の原爆の威力を越えている。欧州タイプの建物の損傷は、長崎の方が広島よりも深刻だ。長崎はゆっくりと無秩序に再建されている。国からの本格的な援助を住民は受けていない。
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 ソ連が原爆の開発に成功するのは、米国から4年遅れの1949年だ。45~46年の段階では、その威力や放射線被曝(ひばく)に関して知識は乏しかった。専門家の間では、これら二つの報告書には、原爆の効果を過小評価しようとする傾向があるとの指摘がある。
 広島への原爆投下直前の45年7月、スターリンはトルーマン米大統領から原爆開発の話を知らされた際、極めて平静を装った。原爆の意義を低く見たいというスターリンの願望があったともいわれる。スターリンの意思を忖度(そんたく)するあまり、これらの報告書にもバイアスがかかり、原爆の威力を過小に記そうとした可能性がある。粛正を恐れた官僚国家ソ連では、真実の報告よりも権力者への配慮を優先した土壌がある。
 これらの調査団より早く、45年の8月16~17日に広島と長崎に入ったミハイル・イワノフ氏の報告書は、彼から直接聞き取りをしたアレクセイ・キリチェンコ氏によると、「駆け引き無しに、隠さず見たままを書いた」とされる。
 当時、スターリンにまで上げた報告書が今も見つからない以上、101歳で今年亡くなったイワノフ氏が晩年、キリチェンコ氏に明かした証言こそが、現時点では最もニュートラルな資料といえるだろう。
 ただ、「核の時代」の幕開けに直面したソ連が当時、原爆の被害をどう直視して記録したのか、それを知るためにも、イワノフ氏の原爆報告書がいつか見つかることを期待したい。