Saturday, 8 November 2014

「佐村河内守」現象について - Tr,平居の月曜プリント

Tr,平居の月曜プリント

2013-08-25

「佐村河内守」現象についてAdd Star

 佐村河内守(さむらごうち まもる)という人の音楽が、1年くらい前からしきりに話題になる。3月31日にNHKで特集番組が放映され、今月11日には『毎日新聞』で、まるまる1面以上という破格の特集記事が組まれた。仙台でも、来年4月にこの人の第1交響曲演奏会が行われるらしいが、来年4月の演奏会チケットを今年の7月から売り出したことといい、東京エレクトロンホールという仙台で2番目に大きな会場で、特別な指揮者が来るわけでもない仙台フィルの、しかも1曲だけの演奏会なのに、チケットが8000円もすることといい、正に異例づくしである。
 一応、音楽に強い関心を持っている私としては、以前から気になっていたので、特番を見た上で、その反響の大きさによって放映されたという彼の第1交響曲演奏会の録画(4月27日)も、録画しておいて3回見た。ところが、私がそれを3回も見たのは、素晴らしいと思ったからではない。これだけ評判になっていながら、何が素晴らしいのか分からなかったから、とりあえず3回見てみた、というだけの話である。もう見ない。私が価値を見抜くだけの力を持たないのかも知れないし、性が合わないだけかも知れない。実際、曲に価値がないのかも知れない。要は、何が何だかよく分からないのである。
 佐村河内という名字は初めて聞いた。すごい時代がかった名字だな、と思う。広島出身の被爆2世で、ピアノを弾くことに関して幼い頃から類い希な才能を発揮したが、作曲を含めて、基本的に音楽は独学で身に付けた。35才くらいの時に聴力を完全に失い、いろいろな病気も持っているらしい。大量の薬を服用しながら、聴力を失ったことによる神経の過敏から身を守るために光の刺激を避け、日中でも自宅ではカーテンを閉め、外出時はサングラスの着用が欠かせない・・・。
 こんな話を聞きながら、私は、危ない、危ない、と思う。いかにもマスコミ(=それを支える多くの人々)の喜びそうな話がてんこ盛りだ。人の喜ぶ話の条件とは・・・、そう、悲劇性と英雄性である。(被災地についての報道の問題として、2011年10月31日に書いたことがある(→こちら)。 このブログで最も反響の大きかった記事のひとつである。しかし、これは被災地報道に典型的に表れるというだけで、実はもっともっと普遍的な話だと思っている)
 健康上いろいろな問題を抱え、しかも聴力を失った音楽家が大規模な交響曲を作曲する。しかも被爆2世である。そこに被災地の少女との交流が絡んでくる。佐村河内といういかめしい名字や、常に黒系の服を着、長髪・髭にサングラスと杖という風貌も演出効果を高めているだろう。宣伝とか広告というものが非常に大きな力を持つ現代に、日本人の国民性という問題もあって、これらの情報に踊らされ、自分も彼の音楽を素晴らしいと思えなければ自分がおかしいのではないかと不安になる、周囲の人の様子に引き摺られてなんとなく素晴らしいという気になる、そういう人は非常に多いのではないだろうか?
 彼の第1交響曲は熱狂的に迎えられているようだ。映像で見ると、日本では珍しいスタンディング・オベーションが長く続いている。しかし、同じ規模の曲として考えても、ブルックナーマーラーのような「古典」としての名声が確立した曲に熱狂できる人の数よりも、佐村河内の曲に熱狂できる人の方がはるかに多い、もしくは熱狂の度が強いというのは、作曲者が会場にいたことを考慮したとしても、明らかに不自然である。
 「現代のベートーベン」という評価も聞くし、佐村河内ベートーベン肖像画に似せて印刷した新聞広告も目にしたことがあるけれど、正に営業のための茶番である。佐村河内ベートーベンの共通点として「耳が聞こえない作曲家」以上のものを見出すことが、私には今のところできない。200年の批判に耐えてきた音楽と、つい先日書き上げられた音楽を同列に評価できるほど、一般人(ここに含まれない人は、ごくひとつまみの天才だけ)の審美的能力は高くない。そう書けば、今の人を馬鹿にしているようだが、今の人を馬鹿にしているのではなく、歴史を畏敬しているのである。
 音楽以外の雑音が大きくなればなるほど、どれだけ心澄ませて純粋に音楽に向き合えるかが問われてくる。雑音があまりにも大きいだけに、佐村河内はその練習問題として最高の事例であろう。今、彼の音楽を褒めそやしている人の何割が、50年後に、彼の音楽を手放せずにいるだろう?100年後に、オーケストラのレパートリーとしてどれだけ定着しているだろう? 私が何年後までを見届けられるか分からないけれど、楽しみにしていよう。あるいは、来年4月の演奏会チケットを7月から売り出したのは、主催者も現在の人気が曲の真価によるのではなく、一時的な流行であることが分かっていて、ほとぼりが冷める前にできるだけチケットを売っておこうということなのかも知れない、と意地の悪い想像をしてみたりする。
wafflewaffle2013/08/26 18:07平居様の貴重な、そして世上のブームに警鐘を唱える貴重な意見を読ませて頂き、いくつか思ったことがあります。
今回の佐村河内現象には、どうも仕掛け人がいる、そこで私たちは踊らされているのではないか。
これはCDを買った人、コンサートに詰めかけた多くの人が口には出さないが心の隅に思っていることではないでしょうか。
そう言う私も数種のCD、DVDを買い求めており、コンサートには家内を連れて出かけていっております。
私の場合は素直に感動いたしましたが・・・。
悲劇と英雄のストーりーの感動をもとめてコンサートに行った? そうかもしれません。クラシックの道からすれば邪道かもしれません。

 家内は先日日産スタジアムの「東方神起」のコンサートに30才を超えた娘と出かけ顔を輝かせて帰ってきました。
二人は100 %満足しており、家内と娘はエネルギーをもらった、明日からの活力を得たと言っておりました。
2日連続で毎日6万人も入場者を集め、女性を虜にする魅力はどこにあるのでしょうか。
骨董品好みの好事家が幅を聞かせるクラシック業界はやがてエネルギーが枯渇して行くのではないかと思います。
私は作曲家の背景がどうであれ、玄人を感動させるより、知識のない素人を感動させる方が難しいと思っています。
成功するにつれどんどん悲劇性がふくらんで行き、英雄神話を補強し神格化して行きます。
神童として光り輝くモーツアルトと共同墓地に埋葬されるその晩年の光と陰、
そしてベートーベンの、遺書、葡萄酒、裁判、難聴等など数々のエピソードや悲劇、
そのような話は過去の有名な作曲家をあげればいくつも出てきます。後世の人々は英雄に対して
引力に惹かれるようにエピソードを綴るものです。

「佐村河内守も名だたる有名作曲家に劣らぬ資格を持っている」と懐深く考えるのが健康的で良いと思います。
本人も色眼鏡で見ないで欲しいと言っているわけだから音楽を聴いて判断しましょう。
そこで「性が合わない」と思えばそれはそれでよし、「性が合う」と思えば追っかけやってもよし。
私自身はどうかと言えば、
西洋でなく東洋の日本、しかも同時代に生きる私たちに神様がくれた贈り物
たと思っております。
評価については平居様がおっしゃるとおり最終的には
「歴史が評価を下す」事になるのだと思います。
takashukumuhaktakashukumuhak2013/08/26 21:19waffle さま

コメントありがとうございました。

まったくおっしゃるとおりだと思います。

政治や学問に関する議論と違い、音楽というのは、それを受け取る側がいい気分になれればそれでいいのですから、余計なことを考えず、素直に耳
を傾ければいいのだと思います。

私なぞは、邪念に振り回されるまいという邪念に陥っている、実に滑稽な事例だと思いました。

今後ともよろしくお願いします。

平居 高志
岬丸岬丸2013/09/17 17:48ベートーヴェンは耳が不自由だから讃えられているのではない。曲が素晴らしいから讃えられているのであって、佐村河内守もまた同じなのである。
By 野本由紀夫(音楽学者)
ajiaji2013/10/12 06:05緻密かつ巨大な構築物、佐村河内守は天才です。
物事を斜めからしか見れない方に同情します。
aji aji2013/11/15 18:32再び失礼いたします。

解る人には解るということですね。
ウィーンフィルの首席コンサートマスターと言えば大巨匠ライナー・キュッヒルですが、そのライナー・キュッヒル氏が佐村河内守の才能に惚れ込み、佐村河内のソナチネを演奏することが決まったそうです。
これは本当に凄いことです。
takashukumuhaktakashukumuhak2013/11/15 23:02aji さま

たびたびコメントありがとうございます。

「聴かず嫌い」をすることもなく、誰かの評価を鵜呑みにすることもなく、自分の身の丈に合った聴き方をしていきたいと思います。

生前、シューベルトの才能に気付けた人は多くなかったはずで、私も当時生きていたら、気付けなかった一人だと思います。かと言って、その才能
に気付けた人(例えばベートーベン)に教えられたとしても、教えられたことで得られるようになった感動が、本物であるのかどうかは怪しいもの
です。

佐村河内守が偉大であるかどうか、分かる日が来るかも知れないし来ないかも知れません。

それが私の実力なのだから仕方ありません。そんな自分に正直でありたい、それでいいやと思います。

今後とも、いろいろご教示下さい。

平居 高志
おせっかいおせっかい2014/02/05 09:36さあ、この言明拡散しましょう!芸術の価値と生身の作者の関係にもってこいです。タイミングが良すぎるので、一呼吸して。
MonoMono2014/02/05 13:59歴史の評価を受けるまでもなかったですね。
天才作曲家どころか、天才でも作曲家ですらない詐欺師でしたね。
HYWOHYWO2014/02/05 19:53去年佼成ウインドオーケストラ演奏でききましたが、うるさかったです

苦悩=不協和音って安易だなあと思いましたけど

結局ニセモノだったという(笑)

この記事は慧眼でしたね

今まで通りゴーストライターの新垣氏を褒めちぎらないと整合性がとれない評論家や音楽ファンは多いことでしょう
音楽愛好家音楽愛好家2014/02/05 20:20素晴らしい洞察力ですね
やはり彼はフェイクでした
クラシック好きクラシック好き2014/02/06 09:33素晴らしいですね。
今回の騒動の深いところを突いてます。

以前、有名なヴァイオリニストが空港の入り口付近で名も明かさず演奏をし続けたところ、足を止める人は数人だったという検証がありましたがそれと少し似ていると思いました。
検証方法に疑問を感じる点はありますが、芸術を「ブランド力」に影響される事なく真に評価を出来る人間はこの世に何人居るのかと。
hrtknrhrtknr2014/02/06 22:08慧眼でした。
正直、佐村河内なる人物に興味がなかったので、最近の騒動で読み方を知った程度の者です。
内なる声に正直でいること、大事ですね。
とおりすがりとおりすがり2014/02/07 03:46殆ど全ての音楽的手法をやり尽くしたロマン派以前と以降を
同じ土俵で比べるのは、ちょっとフェアじゃない気がします。
そりゃあどんな作曲家だって、バッハやモーツアルトと比べられたら
匙投げ出してヤル気なくしますよ。
「なんだ、俺が思いついた事なんて、全部彼らがやってるじゃん」
ってね。
tooritoori2014/02/07 13:58周囲の騒音に踊らされずに真摯に作品だけを聞く。すばらしいことです。世に跋扈している評論家よりもずっと音楽に向き合っていると思います。
ひろこひろこ2014/02/10 13:05フジコヘミングも同様だったと思います。佐村河内氏の場合、まったく耳の聞こえない人が普通に話しているという時点ですごい事だと思います。NHKは違和感を覚えなかったのでしょうか?…違和感を感じなかったのであれば、それもまたすごいことだと思います。
ほんとのとおりすがりほんとのとおりすがり2014/02/10 14:10音楽だ詐欺だっちゅう以前に、
この 佐村河内という男が 「自分というカリスマ」に酔いしれてるたたずまいを
おなじ人間として素直に 嫌悪感をもった という感想がどこにも見当たらないことがふしぎでした。
achach2014/02/11 21:09> aji 2013/10/12 06:05
> 緻密かつ巨大な構築物、佐村河内守は天才です。
> 物事を斜めからしか見れない方に同情します。

偽者だと明らかになった今、この人に感想を聞いてみたい。
サラサラ2014/02/13 22:24私も一緒に踊ってしまった1人です。
素人を扇動したミーハーな音楽評論家さん達のコメントが、未だ、出ていないようですが。
佐村河内を絶賛した音楽専門家の方々の責任は、非常に重いですよ
こちらのお話と早く出会っていれば、感じ方も違ったかな。と思います。
psypsy2014/02/23 16:57素晴らしい慧眼
おせっかいおせっかい2014/02/27 10:441. 匿名ライター 2014/02/10 at 17:37 返信
新垣氏の苦悩にたいする所感
森下唯さんのピアノには、初夏のケヤキのような、
エッチな匂いを感じる一音楽ファンです。
ジャンルは違いますが、ゴーストを生業にしている者です。
私も、世間的には先生と言われる職業に就いています。
ゴーストに依頼するメリットは、依頼者が目指すものを客観的に捉え、
より魅力的に演出できる商品を、生み出してくれる事にあります。
自分がゴーストを始めたきっかけは、偶然機会があり、軽い気持ちで
作ってあげたらウケた、そしたらまた依頼がきた、の反復ですね。
依頼者を喜ばせ、それによって世間も喜び、メディアで称賛されれば
自分もうれしいし、最初はバイト感覚なので素直に楽しめました。
そんなことを何年も続けているうち、ゴーストとしての倫理感のような
自分を律する掟も必要になります。とにかくお互いバレるとマズイので
堅く口を閉じる、証拠を残さない、法に触れることはしない、といった
自分なりの正義を遵守していると、さらに信用され仕事も増えます。
ゴースト(こんな言い方はしませんが)を批判する人は世間知らずです。
どのような業界にもゴーストが存在して、社会がうまく回っています。
ただ、ゴーストを長くやっていると、反社会的な組織からの依頼を紹介
されることもあります。これがひじょうに厄介な問題となります。
もともとバイト感覚なので、楽しめていた事が、楽しめなくなるのです。
依頼された仕事自体に問題がなくても、反社会的な組織の活動を実質的に
助長するような行為は、人としてどうなのか、という倫理が働くのです。
反社会的な組織からの依頼、といっても、最初はわかりません。
依頼者に誘われて一緒にゴルフへ行っても、親切でいい人なのです。
そうして仕事を引き受けてしまい、進めていくうちに判明するのです。
ゴースト分野の仕事をしている人なら、誰にでもあると思います。
紹介者の顔をつぶすわけには、いかないので、仕事をするわけですが、
そんな経験を何度か積んでいると、対処の仕方がわかってきます。
今回の新垣氏の記事、謝罪会見を見ていると、ここに至った胸のうち、
逡巡が、同業者(でもないが)としてよく理解できます。
最初は楽しかった、ところが、ある時期から依頼者が自分の倫理に反する
行いを始め、自分がそれに加担することになった、そのことの苦悩です。
ゴースト同士が情報交換し、ノウハウを得られるような場所はないので、
それぞれ自分で解決するしかないことに、この事件の稚拙さがあります。
場数を踏んでいるゴーストならば、対処の仕方はいくらでもあるのですが、
新垣氏の場合、20代から始めクライアントは一人、しかも最初はいい関係
だったのが、真綿で首を絞められるように、逃げ場のない状況に陥った。
反社会的なクライアントから、どのように離れればいいのか、といえば、
クライアントに軽蔑され、こいつは使えないと見限られる、ダメダメな
仕事をするに限ります。しょうもない仕事をすればいいんです。
新垣氏には、それができなかった。あいかわらず、一生懸命いい仕事を
してしまった。新垣氏の生徒さんたちが証言している通り、常に真面目に
ひたむきに、クライアントが喜ぶ作品を書き続けてしまった。
単純にゴーストとは割り切れない、愛弟子への思いもあったのでしょう。
それが新垣氏の、生徒さんたちから慕われる所以の、人の良さでもあり、
処世術にうとい、胆力の弱さが引き起こした事件ともいえます。
しかし、反社会的なクライアントを増長させてしまった、責任の重みを
自ら認め、つぐなう覚悟をされている新垣氏の行為は、尊いものです。
この事件により生じた、商産業一連の取引損害については、当事者同士が
交渉して決めることであり、お金のことで外野が騒ぐのはお門違いです。
裏切られたとか、高橋選手が等の罵声は、甘んじて受ける他ないが。
ゴーストを暴露した時期については、適切なタイミングでしょう。
2月頭より早くても遅くても、もっと面倒なことになったはず。
なんで、もっと早く告白しなかったのか、という意見は当たりません。
眠れぬ夜を重ね、崖っぷちで誰かに押されない限り無理なんです。
新垣氏には、はからずも社会に評価されてしまった部分の能力を磨き、
今後の人生は、そちらの方向で再挑戦してほしいと願っています。
おせっかいおせっかい2014/03/02 12:18第11回現代日本オーケストラ名曲の夕べ

(前略)


 最後に演奏されたのは、佐村河内守が作曲した管弦楽のための「ヒロシマ」。今夜が世界初演とのことである。彼の音楽は、広島に捧げられた交響曲が初演されて以来世評が高いが、正直なところ私
はまったく理解できない。たしかに、感覚的にはこれほど豊かな旋律性とリズムの推進力を兼ね備えた、かつ振幅の大きい作品を、一切の聴覚を失ったなかで──佐村河内は、35歳の時に聴覚を失い、またそれ以前からずっと激しい頭痛に悩まされているとのことである──構成しえたことには驚嘆を禁じえないし、そのことに対しては心からの敬意を払うべきだと思う。しかし、調性音楽と無調音楽のあいだを行き来するような音楽を、何故今ここで書かなければならないのか、その必然性を音楽のなかから聴き取ることはできなかった。聴きながら、例えばショスタコーヴィチとだいたい同時代の、また彼ほどの構成力をもたない作曲家が、社会主義リアリズムと新古典主義のアマルガムのように、このような交響的作品を、標題音楽として書いたかもしれない、などと妙な想像を繰り広げてしまうくらい、実は退屈させられた。静と動、強と弱の移り変わりも、ラプソディックとさえ言えないほど気まぐれに聞こえる。管弦楽のトウッティとともにチューブラー・ベルが打ち鳴らされるクライマックスには、赤面を禁じえなかった。こうした、恥ずかしいとしか言いようのない音楽を書く以前に、無調以後の音楽のテクスチュアを、そこにある論理を、心の耳で聴くことから始めてほしいと強く思わざるをえない。
 このように、佐村河内の音楽には落胆せざるをえなかったとはいえ、糀場と細川の音楽の充実した内容は、聴衆に充分伝わったのではないだろうか。そして、冒頭にも述べたように、両者の作品の邂逅が広島で実現したことは、画期的な出来事とも思われる。これを機会に、二人の作品が定期的に、かつ海外の作曲家が「ヒロシマ」に寄せた作品とともに、繰り返し演奏されることを願っている。
«前 (3/3)
おせっかいおせっかい2014/03/02 15:04剽窃とは言わないまでも、いろんな作曲家の作風を稚拙に模倣している。コーダはまるっぽマーラー交響曲第三番のコーダの効果を借用している感じ。気の毒な境遇だと思うけど、才能の有無は冷静に評価されるべき。今はプロモーター(フジコヘミングも手掛ける)とレコード会社の強力押しでメディア露出が多くてど素人に憐憫訴え売れてるだけ。数年後には忘れられているでしょう。扇情にあおられてはいけません。

投稿: かな | 2013年5月12日 (日) 07時49分

かなさん、コメントありがとうございます。
佐村河内音楽のとらえ方は、皆様、それぞれでいいのかと思います。
ワグネリアンを自称するわたくしとしては、現代におけるこの音楽は、各種のフィルターを外して、これはこれでいいのだと思います。
メディアは、もうこの次はないと思いますし、明らかな違う路線のプロモーションも、いすれはひと段落するのではないかと。
ですから、氏の次の一手を注目したいと思いますし、世間は静かに、ときには忘れるくらいに見守るべきと考えます。
「シャコンヌ」は交響曲とは違う道筋を示してますし、きたるべくピアノソナタに注目したいと思います。

投稿: yokochan | 2013年5月12日 (日) 22時53分
おせっかいおせっかい2014/03/18 09:55コメント再送
3月1日頃、以下の長文コメントを送ったつもりでしたが、掲出されないので再送します。所詮おせっかいで黙殺されるのは甘受しますが、テーマのなりすまし、無断引用に絡み、平居さんをピエロにしてしまいかねないので、あえて再送する次第です。
なお、実際の送信文は残っておらず、奇しくも小保方さんがD論の下書きが論われていると釈明したのと同様、たまたま下書きに残っていた分を使用することから生じる問題を含むことを予めお含みおきください。

〈3月1日頃のコメント原文〉

緊急訂正コメント
なぜか、上のコメントに平居さんから次のメールが発信元アドレスに届きました。
「From: Takashi Hirai <taka〔以下、一応略〕>
日付: 2014年2月28日 18:06
件名: ありがとうございました
To: syn〔同前〕
おせっかい さま
すばらしいコメントありがとうございました。
とても納得しながら読ませていただきました。
新垣さんについては、おそらく悪く言う人はあまりいないと思います。
記者会見の様子を見ていると、誠実さが滲み出ていましたから。
「おせっかい」さんのコメントを読むと、それが更に裏付けられてくるような気がします。
聞く所によれば、ピアノも含めて、音楽には相当実力のある人のようです。
新垣さんが民事的にどのような扱いを受けなければならないのか分かりませんが、ほどほどな所でケリを付けて、その実力をのびのびと発揮して欲しいものだと思います。
今後ともよろしくお願いします。
「Tr,平居の月曜プリント」(平居 高志)」
これが高等皮肉でなければ私「おせっかい」が平居氏に影響したというようなことになってしまいますが、上のコメントは、コピー引用です。
出所はピアニストの森下唯の「森下唯 official site」中のBlogの2014/02/07「より正しい物語を得た音楽はより幸せである」に寄せられた「匿名ライター」氏の2014/02/10コメント「新垣氏の苦悩にたいする所感」の全文引用です。
もちろん平居さんを引っ掛けようなどという意図はなく、あわてていて出所明示を怠っただけですが、ある種“なりすまし”事件の論評が別種の“なりすまし”で微妙なこじれを生じるところでした。ここに事情を明示して誤解なきことを祈ります。
さらに、上の引用以外にも平居さんの参考になりそうなネット上の論評をいくつか追送したのですがはねられているようです。無断引用に対するフィルタリングでも作動したのでしょうか?

以下は「おせっかい」本人のコメント。

今回の騒動は、従来問題の所在さえ言及されなかったいろいろなことを暴き、考えさせるきっかけと材料を提供してくれました。

第一に物語が音楽の(営業、興業?)価値を相乗的に煽り高めてしまったことです。今回は虚偽を交えた民事問題が絡んでしまいますが、本質的には『HIROSHIMA』と並んでミーハー話題沸騰中の宮崎駿『風立ちぬ』の主題歌としてリバイバルしたムーミン『ひこうき雲』も同じことでした。さらに蛇足ですが、信州人の私は表題に対して「堀多恵子が辰雄を回想するイメージがぬぐえず、どうせマンガだ、流行歌だと思いつつも軽井沢の空を思い浮かべて魅かれてしまうのを抑えられません。一方、このところNHKを通じてもっとも頻繁に聞かされる『花は咲く』の作曲者菅野よう子が「『100年経って、なんのために、あるいはどんなきっかけで出来た曲か忘れられて、詠み人知らずで残る曲になるといいなあと願っています』と語っている」(ウィキペディア)というのは示唆的です。
第二に全く別である民事の責任問題と音楽の評価問題が分かちがたく絡まってしまったことです。ウソつき者の民事的責任は明らかですが、それは措きます。困難はうそつきの音楽の価値をどう見るかということで、「うそつきの作った曲は嘘だ」という感じ方を百パーセントぬぐうのはなかなか困難です。大友直人は意図的なうそつきでないにしても結果的にウソの受け売り屋だったかという疑念はどうしても残ります。文学ですと、不倫を重ね芥川賞ねだりで狂態を演じた中毒患者太宰の私生活は全く捨象され『走れメロス』が健康優良児として教科書に載ります。

第三は第二の問題から派生する、新垣にとって自作に価値を認められるかということです。彼は“クラシック”“現代音楽”というコード、あるいは規範に自縛されていて佐村河内名義で大衆の人気を博した曲を恥じているのかもしれません。でも、フランス料理の名シェフが帰宅すると女房の味噌汁と糠漬けでたしなむ焼酎を偏愛するのはありふれたことです。プロ(職業)野球選手はゴルフ場でこそスポーツを堪能しています。宮水の教員もPTAでは「10名の退学を希望する」とは、まさか言わないでしょうから親は先生を信じ、先生は生徒に君臨できるのです。それに比べ、音楽の場合、現代の講壇音楽界はいかにハイドンからショスタコーヴィッチに至るわずか200年足らずの歴史の呪縛におびえ、そこから異常な新しい戒律世界に逃げ込んでいるのでしょうか。それとも調性に満たされた故郷を失い寄る辺なき無調砂漠に迷い込んで望郷の思いに苦しんでいるのでしょうか。

第四に音楽芸術の普遍・特殊性を考えることです。美術であれば国立芸大学長平山であろうが障がい者山下であろうが作品は好き嫌いを越えて共存できる一方永仁のツボや座散乱木の石器は一挙に巨額の評価額表と美術書の冒頭グラビアから消されます。文学ではフランス臭い『風立ちぬ』に『かげろふの日記』が並んでも何の抵抗もないし、高校生でさえ現国・古文を等価値にとらえられますが、プロレタリア文学圏では卑しい作家の作品は卑しいというようなテーゼがまじめに論じられていました。表で美人画、裏で枕絵は常態ですし、純文学とポルノを別名で公然と使い分けているのは芥川以来珍しくありません。音楽では誰も聞かない作曲家が大学に寄生し、大河ドラマの曲を成功させた吉松や三枝が羨み含みで差別される、この意味はなんでしょうか。文学界では直木賞と芥川賞が融合共存しています。音楽界で新垣は例外でしょうか、実は通例なのでしょうか。

第五にゴーストライターの問題。クラシックだけが孤高の「倫理性」を意固地に守ることに意味があるのか、出版界のゴーストの普遍性と併せて民事・表現両面から整理する必要がありそうです。これには先の引用がわかりやすい材料を提供してくれています。

〈コメント原文了〉

2014年3月18日追記
私「おせっかい」の第1コメントの出典は上記のとおりです。実は上の長文コメントは第1コメント好評の直後に送ったつもりでした。ところがその後に第2,3のコメントも上のように公表され、あわててその出典もコメントしました。その原文は残っていません。最低限の責任で出所を明示します。

第2コメントは、Nobuyuki Kakiji名義ブログ「Miszellen」の2013年11月3(4)日、同タイトルの全文です。
第3は、ブログ「さまよえるクラヲタ人」の2012年11月18日「佐村河内守 交響曲第1番『HIROSHIMA』聴きどころ」へのコメント(抄)です。

操作ミスで本コメントが混乱を増幅せざらんことを!

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o_p    

★★元ページ★★ http://d.hatena.ne.jp/takashukumuhak/20130825/1377434429 http://web.archive.org/web/20141108074639/http://d.hatena.ne.jp/takashukumuhak/20130825/1377434429