Wednesday 12 February 2014

佐村河内守という生きかた――両耳の聴覚を失いながらも続けた、“いのち”の作曲



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佐村河内守という生きかた――両耳の聴覚を失いながらも続けた、“いのち”の作曲


(更新 2013/12/26 15:00)
佐村河内 守さん(C)写真提供/日本コロムビア
佐村河内 守さん(C)写真提供/日本コロムビア
大友直人、東京交響楽団
定価:2,940 円(税込)
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「現代のベートーヴェン」と米『TIME』誌により紹介された全聾の作曲家、佐村河内守(さむらごうち まもる/50歳)さんをご存じでしょうか。
フィギュアスケートの高橋大輔選手がソチ五輪日本代表に選出され話題を集めましたが、実は、彼がソチ五輪シーズンのショートプログラムで使用している「ヴァイオリンのためのソナチネ 嬰ハ短調」は佐村河内さんが作曲した曲です。

■「交響曲第1番―“HIROSHIMA”」への軌跡

4歳からピアノの先生の母の英才教育を受け、10歳でベートーヴェン、バッハなどのピアノ・ソナタを弾けるようになり、交響曲の作曲家になることを決意したという佐村河内さん。12歳のときには人生初となる、40分に及ぶ管弦楽作品を作曲したという天才です。
し かし、佐村河内さんが17歳のとき、人生を大きく狂わす出来事が起きました。路面電車の中で激痛に襲われ、意識を失い駅のホームに倒れ込みます。痛んだ場 所は左目の奥、鼓膜に近いところ。その日以降、痛みを伴う発作が断続的に続き、診療所や大学病院など数々の医療機関を受診しますが「原因不明の偏頭痛」と 診断され、まともな治療を受けられず、ついには24歳から左耳、翌年からは右耳の聴力低下が始まります。同時に、ひどい耳鳴りにも苦しめられるようになり ました。
耳鼻咽喉科を受診し「突発性難聴」と診断されるも、医師からは「診察を受けるのが遅すぎる。治ることはないだろう」と告げられます。作曲 家生命を絶たれる恐怖におびえながらも、補聴器を頼りにシンセサイザーを使って作曲を続けますが、30歳のときに左耳の聴力を完全に失うことに。しかし、 佐村河内さんの“運命”はそれだけでは終わりません。35歳のときについには右耳の聴力も失ってしまいます。医療検査機関からは「感音性難聴による両耳全 聾」「両耳鼓膜欠落」と診断されました。
両耳の聴力を完全に失ったと気づいた日、あまりの恐怖に失禁し、外が暗くなるまで何時間も壁に寄りかかり 動けなかったといいます。しかし、それまで人生の全てを費やしてきた作曲を諦めきれなかった佐村河内さんは、絶対音感のテストを自分に課しました。これま で聴いてきた作品の旋律を、白紙の五線紙に書き込んでいくのです。ピアノ曲やオーケストラ作品など約30の作品を試した結果、一音のミスもなく再現できた そうです。こうして、聴力がなくとも作曲を続けられる自信と勇気を得ることができ、今も作曲を続けています。
そんな佐村河内さんの代表曲は『交響 曲第1番―“HIROSHIMA”』。「希望のシンフォニー」と紹介した方がわかる人も多いかもしれません。そう呼ばれるようになったきっかけは震災から 10日後の3月21日、ある音楽ブログに投稿された書き込みでした。送り主は福島第一原子力発電所の事故で避難を余儀なくされた福島県の男性。
「今も避難所で悲しみと被ばくの恐怖に震えています。僕は大友直人と東京交響楽団のファンで、昨年四月四日、はるばる東北から東京の芸術劇場に被ばく二世の作曲家・佐村河内守の『交響曲第1番―“HIROSHIMA”』を聴きに行き、かつてない感動を得ました――」
「祈りの大交響曲である『交響曲第1番―“HIROSHIMA”』こそ、被災した僕たちに今最も希望をもたらす曲であると信じています」
この一通の書き込みをきっかけに、全国のリスナーが「交響曲第1番」を耳にすることになりました。そして「交響曲第1番」は、数多くの被災者を勇気づけ、いつの頃からか「希望のシンフォニー」と呼ばれるようになったのです。
2013 年3月31日には、NHKスペシャル「魂の旋律~音を失った作曲家~」で、その過酷な作曲の様子が放送され、佐村河内さんはその存在を広く知られるように なりました。代表曲『交響曲第1番―“HIROSHIMA”』のCDは、クラシックとしては異例の18万枚を超える売り上げを記録します。

■レクイエムの誕生

それにしても、なぜ佐村河内さんが作曲した曲は、人の心を打つ力があるのか。この稀代の作曲家のドキュメンタリーを撮影するために、5年以上の間、“家族として”寄り添ってきた本書の著者でディレクターの古賀淳也氏は、次のようなエピソードを紹介しています。
「佐 村河内さんの同行取材で出会った石巻市立湊小学校の校長、星圭さんの話が強く印象に残っています。東日本大震災で児童を亡くし、また自宅が地震で倒壊する といった被災経験をした星さんは、佐村河内さんが震災で母を亡くした少女のために書き上げた『ピアノのためのレクイエム イ短調』に心打たれ、その感想を私にこう語ってくれました。
――僕は長い人生で初めて音楽だけで涙が出ました。佐村河内という男は本当にすごい。われわれ被災者の中にある複雑な気持ちを、よく音楽で表現していた。実際に被災していない人にはなかなかできることではない。彼の中にある“共感力”がすごいのだろうなと思います――」
古賀さんは、「ピアノのためのレクイエム イ短調」を佐村河内守さんが完成させるまでの創作現場に密着し、彼が魂を削りながら命がけで曲を作り上げていく様子を綴っていきます。
津 波でシングルマザーの母を亡くした小学4年生の少女に、「レクイエム」を贈ろうと、佐村河内さんは交流を続けます。何度も被災地を訪問した佐村河内さん は、最後にその母が津波に飲まれた女川港で一夜を明かすことさえするのです。季節は極寒の2月。約870人の死者・行方不明者を出した女川の海で、佐村河 内さんは海水に右手を浸し、冷たい海の中で凍えるようにして亡くなった人たちの辛さ・無念さを少しでも感じとろうとします。
自分に死者の魂を慰め る曲を書く資格があるのかと苦悩し、その恐怖と闘いながらも必死に“愛”を表す旋律をつかみとろうとする佐村河内さんの姿は壮絶としかいいようがありませ ん。そして佐村河内守さんは、持病の激しい耳鳴りや発作を抑えるために1月15種類もの薬を服用しながら作曲を続け、とうとう「レクイエム」完成に至るの です。
この佐村河内守という男の作曲にかける執念の源は何なのか――。ご自身の目と心で確かめてみてはいかがでしょうか。


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