Sunday 27 July 2014

なぜ研究者は小保方さんに厳しいのか: 異端的考察

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なぜ研究者は小保方さんに厳しいのか

STAP論文の件について、twitter等ではさまざまな意見が流れています。しかし、それらを見ていると、どうも研究者と一般人の間とでずいぶんと考え方の相違が現れることが多いようです。このような違いが生まれてしまう理由には、研究者はほとんどの人が知っている(がゆえにわざわざ語られないことが多い)が、一般人は意外と知らない「常識」がいろいろとあり、そのために考え方が大きくずれてしまっているという面があるように思います。そこで、ここでは一般人が素朴に抱きそうな疑問に答える形で、そうした「常識」を整理しておきたいと思います。
■確かにSTAP論文は捏造かもしれないが、万が一正しかったら世紀の大発見を見逃すことになるのだから、小保方さんにも参加してもらって大々的な検証をするべきでは?
こうした考え方は一見自然ですが、しかしこの考え方は「万が一正しかったら世紀の大発見と言えるようなトンデモな主張」というのは、ネットでも本でも山のように落ちているという事実を見逃しています。例えば「永久機関が出来た!」とか「アインシュタインの相対性理論は間違っていた!」とかの類の話は、ちょっと検索をかけただけでもすぐに見つけることができます。永久機関が出来たとなれば紛れもなく世紀の大発見ですし、アインシュタインの相対性理論がもし間違っていたとすれば物理学が大幅に書き換えられることは必至で、これもまた物理における世紀の大発見になります。しかし、真っ当な研究者はこういった話はいちいち取り合いません。「万が一正しかったら」という程度の話では、研究者は相手をしているほど時間もお金も余裕がないのです。
もし科学の世界の問題がSTAP細胞以外になにも存在しないのならば、STAP細胞をみんなで一生懸命調べてもいいのかもしれません。ですが実際には科学の世界では毎日たくさんの「新しい理論」や「初めて見つかった現象」が報告されているのです。それらの中には、実験設備の問題で「見つけた!」と思ったのとは別の(あまり面白くない)原因で起きているだけというもの、データは正しいけど発見者が思っていたよりも非常に特殊な場合にしかうまくいかないもの、そして真に科学の発展に寄与するような素晴らしい発見であるものもときにはあります。そして、毎日報告される新しい現象を、研究者は精査したうえで選んで改めて実験したり発展させたりしているのです。しかし、研究者はそれほど人数もいなければ時間や予算も制約されているので、報告されているものすべてを調べることなど到底できず、大半の報告は他の人の検証にあずかることは出来ず、そして忘れられてしまうものも多いわけです。当然ですが、これらの報告は捏造などでは全くありません。しかしそれでも検証しきれないものが大半な中で、捏造でありデータが全く信用できないことが分かっている話を、他の大量の報告を押しのけて優先的に人的リソースと予算を割いて検証すべき、というのは到底理解できないわけです。
■研究者は「変わった意見」を叩くのではなくもっと寛容になるべきでは?それこそが科学のあるべき姿勢では?
これは今回の事例に限らずニセ科学批判などに対し、科学哲学などを多少かじった人からしばしば見られる意見ですが、実は事態はむしろ逆なのです。一つ前でも見たように、科学の世界では日々新しい現象が報告されており、その中には「既存の科学の常識に反する報告」も多数含まれています。研究者はこのような「常識に反する報告」についてきちんと検証していきたいと考えています。しかし、これもまた前に見たように、研究者の費やせる時間も資金も限られているので、実際にきちんとした検証にかけられるものはそのうちの一部で、残りの報告は大した検証や議論もされずに忘れられてしまったりするのです。当然ですがこれらの報告は、より精度のよい実験で否定されたり間違っていると分かったりするものもありますが、捏造などではなくきちんとした実験によってなされた報告です。
なので、少しでも多くの「常識に反する報告」の検証をするために、研究者は次のように考えています。
●まともな手続によって、きちんとした再現性の確保されているものだけを相手にする
●一度否定された主張は、相当の「新しい証拠」が追加されない限り再びの検証はしない
一つ目のは、「ただの思い付き」とか「適当な実験でなんか変なのが出た」というレベルのものから相手にしていては、検証すべき報告の数が今の比でないぐらいに増えすぎてしまい、しかもこれらはまともな証拠を備えておらず信頼に値しないわけですから、そういうノイズはあらかじめ外しておいて、それによって信頼に値する「常識に反する報告」を検証しようという考えです。二つ目のは、同じ報告の検証を延々繰り返されたら、新しい報告の検証に移れないのでこれは当然です。しかし、血液型性格診断とか、放射線で鼻血とか、とっくに否定されている「説」が蒸し返され、それを研究者が批判すると「科学の精神に沿わないのでは」のような反批判が行われるというのはしばしば見かけます。
研究者は「常識に反する報告」をきちんと検証したいと思っています。しかし、研究者の費やせる時間も資金も非常に限られているので、出来るだけ多くの報告の検証ができるように、ろくに証拠がないような説や、すでに否定されているような説は除外しているのです。
■STAP論文が仮に完全な捏造だったとしても、STAP細胞のアイデアを提起したという卓抜した能力は評価されていいのでは?
STAP論文は「刺激による動物細胞の脱分化」を実験で示したと主張した論文です。細胞は、最初は皮膚の細胞にも神経の細胞にもなれるのですが、あるタイミングから先では、いったん皮膚の細胞になってしまうともう皮膚の細胞になることしかできず、神経の細胞にはなれないようになります。これが「分化」です。「脱分化」というのは、一旦「皮膚にしかなれない細胞」になってしまったものを、再び「皮膚にも神経にもなれる細胞」に戻してあげることをいいます。
さて、この脱分化ですが、まず植物の細胞ではごく普通に刺激によって脱分化が起きることが知られています。身近な例では「挿し木」などは脱分化の一例で、枝を切って(刺激)くっつけておくことで、切り口の細胞は脱分化したうえで別のものになり、枝がつながるのです。動物の細胞でも、例えばイモリは腕を切ったり目玉をくりぬいたりしても、切られた部分の周りの細胞が脱分化して、腕や目玉が再生することが知られています。普通の動物の細胞は単純にしていては脱分化は起きないのですが、「何らかの刺激の与え方で動物の細胞も脱分化できるのではないか」ということはわりと多くの人が思っているところであり、実際そういうことを示唆させる理論の論文も出ています(C. Furusawa and K. Kaneko, J. Theor. Bio. 209. 395 (2001)http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0022519301922647)。
なので、「動物細胞で刺激による脱分化が出来るのでは」という提案そのものはずっと昔からあって、STAP論文で重要だったのは「実際に」動物細胞を刺激で脱分化させたという点です。しかし、それが捏造だったのですから、その価値はなくなってしまったわけです。
■「捏造かどうか」よりも「STAP細胞があるかどうか」の方が重要なのでは?
これはひとつ前で述べたことでほとんど答えになっています。「動物細胞における刺激による脱分化」があってもよいのではという話自体はずっと昔からあったわけですから、今後「動物細胞における刺激による脱分化」がきちんと見つかり確かめられたとしても、それは問題の論文における捏造行為に対する評価とは何の関係もありません。
同じタイプの見方として「結果があっていれば、つまり実際にSTAP細胞があれば、細かいところはどうだっていいじゃないか」というものもしばしば見かけましたが、これも(他の理由もありますが)同様の理由で間違っています。「動物細胞における刺激による脱分化」というアイデアそのものは昔からあって、それを実証したところが偉かったのですから、実際に作れていないのならば話にならないわけです。
■たとえ博士論文で剽窃があったとしても、博士号を取り上げるのはかわいそうなのでは?
これは例を出した方が分かりやすいと思うので例を出します。
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Aさんは、医学部ではないですが医師になりたいなと思っていました。ある日、「1年間の講習であなたも医師になれる」という「医師教室」の宣伝を見つけ、これを信じて多額の授業料を払って時間を費やし、1年後にAさんは医師免許をもらいました。
ところが、その「医師教室」は全くの詐欺会社だったのです。講習は医師に必要な技能とは全然関係ないことしか教えてなく、発行された医師免許は、医師免許の発行機関の内部の人間に裏金を渡して不正に発行させていたものでした。Aさんは、折角お金と時間を費やしたのにこんなことになってしまい、途方に暮れてしまいました。
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この話で、確かにAさんは詐欺会社に騙された被害者で、お金も時間も無駄にしてしまい非常にかわいそうです。ですが、医師の技能を全く持たないAさんを、医師として認めて手術を受けたいと思う人は恐らくいないでしょう。Aさんは詐欺会社から損害賠償は当然受け取ってしかるべきですが、「Aさんが可哀想であること」から「Aさんを医師として認めるべき」とはなりません。
博士号もこれと同じです。すでに明らかになっているように、早稲田は本来行うべき院生の指導を全く行っておらず、そのために小保方さんは剽窃を平然と行い、それは見逃されました。小保方さんは「早稲田が誤った指導を行った結果、剽窃や捏造がしてはいけないことなのだと教えてもらえず、それが特に問題ないことだと誤認してしまい、結果としてとんでもない問題を引き起こしてしまい、多大な被害をこうむった」として、早稲田を訴えることは可能かもしれません。しかし、この事実は小保方さんに研究能力を認定する資格=博士号を与えるべきということを全く意味しません。
■たかがたった一人の博士号の問題で、研究者がいちいち目くじらを立てることはないのでは?
このような「細かいことでは騒がない」という、一見「大人」な考え方もしばしば見かけます。しかし、他のさまざまな業界と同じく、研究者の世界もまた信頼で成り立っているものです。たった一件の飛行機の墜落事故で飛行機に恐怖の印象がつき飛行機利用者がガクッと減ることを考えてみれば、信頼がいかに容易に損なわれることかということは分かると思います。もちろんその感情は不合理かもしれませんが、しかしたった一件の不祥事にもきちんとした対処をして、疑念は払拭しなければならないのです。
「ちゃんと実力があるのなら、博士号などに頼る必要がない」と思う人もいるかもしれません。しかし、ある人が不正など全くせず、本当に実力があったとしても、重要な点は「相手(その人を評価しようとしている海外の研究者や研究機関)はそのことを知りようもなければ確かめようもない」ということです。その人の書いた論文は一つの指標になりますが、捏造だったら話になりません。その人の素性調査などいちいちするはずもないので、評価をする相手に「この人は大丈夫ですよ」ということを簡便に証明してあげるのが資格の役割であり、その一つが博士号です。ところが、もし日本においてはその博士号が捏造や剽窃といった研究者の最低限のルールさえ守れない人でもとれてしまうのだとしたら、海外の人は「確かにこの日本人は博士号を持っているけど、果たして信用してよいものか」と考える可能性は十分にあります。自分の研究室で捏造や剽窃を行われたら取り返しのつかない事態になりますので、「非常に優秀な日本の研究者」と「そこそこ優秀な他の国の研究者」のどちらかを採用するか決めなければいけない場合、万一のリスクを回避して後者を採用することも十分ありうる事態でしょう。
だからこそ、そのような事態を避けるためにも、博士号や研究者養成機関としての日本の大学の信頼は維持していかなければならないし、それを損なうような事態が起きたとすれば、たかが一件の事例であってもきちんとした処置が必要なのです。
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